その日、八島 樹林(やしま きりん)は運が悪かった。

朝から目覚ましが鳴らず、電車には乗り遅れ、乗った電車では痴漢扱いされ、弁当はひっくり返してしまい、休憩中にはお茶をぶっかけられるし、上司には来月から来なくていいと言われ、帰り道では財布を落として歩いて帰るはめになり、そして今、死に掛けていた。



すでに誰もいないアーケードに打撃音と若い声が響く。

「信じらんねぇ、このオヤジ。まじで一円も持ってねぇし」

スーツの上着を弄っていた青年が信じられないという表情で吐き捨てた。

「は?ありえねぇ。俺達どーすんの?」

「俺たちの小遣い無いじゃん?オッサン、どう責任取ってくれんの?」

髪を金や茶に染めただらしない服装の青年達は、口々に文句を言いながら地面で丸まっている樹林を蹴りつける。

「てめーのせいだろ、クソが。あいつもう逃げちまったぞ」

さっきまで別のスーツの男性を締め上げていた金髪の青年が横腹を蹴りつけてくる。

「ガフッ……!」

喉の奥から何かがせりあがってくるのを感じながら、嗚咽を吐き出す。

(あー、こんなことになんなら助けに入るんじゃなかったよ)

頭の片隅の冷静な部分が現状に愚痴を言い始めた。

(どうせ助けても感謝されないし、警察すら呼んでくれなかったみたいだし。今度から自棄になって何かするの止めよう)

今度があるのか?と考えると少し面白かったが、口中の鉄臭さも、腹の鈍痛も、死への恐怖も、何一つ和らいではくれなかった。

「もうウゼェよ。コレ使お」

茶髪の一人がどこからか鉄パイプを持って来るのが視界の端に見える。

「うわ!これ死んじゃうんじゃない?」

別の茶髪の茶化しにゲタゲタと汚い笑い声が唱和する。

(誰か……助けてくれよ……)

図々しいなと自覚しつつも、樹林はそう願うのを止められなかった。



そんな深夜のアーケードに、カラコロと懐かしい音が響いてきた。

下駄の音だったが、青年連中には何の音か分からないらしく、樹林への攻撃を止めて互いに何の音かと囁きあう。

そうこうしている内に音は近付いてきた。

音の正体はまさしく下駄であった。

真っ黒い喪服のような着物を着た、これまた闇に溶け込むように真っ黒い腰まである黒髪の、色の白い少女が、路地に入ってきた。

陰惨なまでの妖艶さを撒き散らしながら、少女は優雅に歩を進める。

青年達を完全に無視して樹林の所まで来ると、無造作にしゃがみ込んで、樹林の顔を覗き込んだ。

「君、美味しそうだね」

さも良いものが見付かった、という体で言うと、ニンマリと笑みを浮かべた。

「何だよアンタ、このオッサンの知り合い?」

「この人のせいで俺達お金が無くなっちゃったんだよね。君、代わりに責任取ってくんない?」

「別にお金じゃなくて一緒に遊んでくれればいいからさぁ」

青年達は少女に標的を変えると、口々に下卑た物言いを始める。

彼らの欲求が金銭から性欲に変わったのは一目瞭然だ。

「に……げ……」

掠れる喉に必死に力を入れ、警告を発する樹林。

自分でも呆れ返っていた。

(何を今更やってるんだ。さっき懲りたばかりなのにお人好し過ぎる)

「え?何?」

少女は無邪気に樹林に聞き返してくる。

「に……げろ」

過剰労働に悲鳴を上げる喉を振り絞り、何とか人間の言葉を発する。

周囲の青年達が激昂するのが分かったが、当の少女はキョトンとするだけだった。

「何で?」

心底不思議そうに聞き返す少女に絶望しながら、これまた絶望的な自分の未来を垣間見る樹林。

「うっせぇよオッサン!」

茶髪の一人が怒鳴りながら、鉄パイプを振り下ろす。

が、パイプは中段構え辺りの位置でピタリと停止し、動かなくなる。

いつの間にか立ち上がった少女がパイプの中頃を掴んで止めていた。

「僕の御飯に何するのさ」

少女は端整な顔を不快気に歪めながら、不機嫌な声で言う。

「は?何言ってんだよ。痛いのが嫌なら下がってな」

別の茶髪が事態の変化に全く気付かず、強気なことを言う。

「おい、どうしたんだよ」

金髪の一人が、いつまでもパイプを取り返さない茶髪に声をかけた。

「ち……げぇよ。コイツ、動かね……!」

茶髪は必死に鉄パイプを振り下ろそうと力を入れるが、壁に固定されているかのように動かない。

「何言ってんだよ」

「力無ぇな、お前」

残りは口々に彼を茶化して笑い、事態に気付かない。

「違ぇよ、まじでコイツうごか……」

彼の主張はそこで永遠に中断されることとなった。

少女が何気なく腕を動かすと、鉄パイプが彼の胸を貫通してしまったのだ。

ゴボリと口から大量の血塊を吐きながら、青年は地面へと転がった。

少女はそれを詰まらなそうに一瞥すると、再び樹林に近寄る。

「てめぇ!ふざけんな!」

仲間が呆然とする仲、金髪が吼えて少女へと突っ込んでいく。

少女は侮蔑とも思えるような視線を金髪に向け、腕を振った。

バシャリ、と粘着質な水音を立てて、青年の上半身は血煙と化して後ろの仲間達や地面、閉まっている店のシャッターを赤く塗装した。

残った下半身が走りのカタチのまま前に倒れ、間抜けな音を立てるのを樹林は虚ろな意識で聞いていた。

「喧嘩してもいいよ、好きだし。皆殺しにしてあげる」

少女は億劫そうに、だがどこか楽しそうに言った。

その手はいつの間にか肥大化し、人間のものでは無くなっていた。

鱗と籠手を掛け合わせたような皮膚に猛獣の爪を合わせたような、大人の手の平よりは大きな手が、少女の細い腕から直接繋がっているのだ。

それはあまりにも歪で醜悪な光景だった。

さらに、青年達は気付かなかったが、少女の頭に二本の小さな角も生えていた。



カラン、と乾いた音が一回。

少女は一瞬で最寄りの青年の目の前まで移動していた。

別に何か特殊なことをした訳ではないし、幻と言う訳でもない。

ただ、単純に走って移動しただけだが、少女の動きに人間の目が追い付かないだけだ。

「ひっ……!?」

短い悲鳴の後、ぶしゃぁぁ、と液体が降り注ぐ音が続く。

瞬きも出来ない間に、少女が手を青年に突き刺して、片腕でその体を持ち上げたのだ。

刺突箇所から大量に降り注ぐ血が音源だった。

少女は血を浴びながら、不快な表情を浮かべる。

「不味いなぁ。ちゃんと野菜も食べなよ」

面白く無さそうに死体を地面に叩きつけると、凍り付いている青年達に視線を移した。

その視線を受けて、ようやっと青年達は動き出した。

「ぎゃぁぁぁ!」

「人殺しッ!」

恥じも外聞も無く、自分達がしようとしていたことも棚に上げ、悲鳴も上げながら逃げ出したのだ。

生き物としての本能が、少女が危険な生物だと理解し、生命を残そうと今取りうる最善の行動を体に取らせたのだ。

「あ、ダメだよ」

少女はまるで廊下を走る小学生を注意するような声音で声をかけたが、当然誰も聞きやしない。

仕方ない、と言う表情を浮かべ、清涼飲料の自販機を地面から引っこ抜くと、涼しい表情で彼らに向かって投げつけた。

「ぎゃぼがっ……!?」

先頭を走っていた青年が訳も分からぬまま轟音と共に自販機に押しつぶされて地面の染みとなり、残りの者も急停止する。

涙と鼻水と涎と絶望に染まった表情で彼らが振り返ると、少女が気だるげに歩いて来るところだった。

「君達が売った喧嘩なのに、逃げるって言うのは感心しないなぁ」

拗ねたように唇を尖らせて可愛らしく言うが、青年達にとってそれは死刑宣告でしかない。

「ほら、続けよ」

笑顔で言う少女の姿は、すでに彼らにとって死神でしかなかった。

「う……うわぁぁぁぁ!」

勇敢にも……無謀にも最後尾の一人が絶叫しながら少女に殴りかかる。

今まで格下しか、しかも集団でしか襲ったことの無い彼の拳は貧弱だった。

それでも一般人が受ければそれ相応の打撃があったはずの攻撃だった。

彼女はその腕の中程を掴んで簡単に止めてしまった。

全体が爪と化した少女の指は、軽く掴んだだけで青年の肉を切り裂き血を滴らせた。

「ぎゃいぃぃぃ!いだいっ!いだいよぉ!」

振り払おうと必死になればなるほど、指は食い込み、傷を深くさせた。

「うるさい」

「あぎっ!?」

少女は手を引っ張って、泣き叫ぶ青年を引き寄せると、首へと噛み付いて喉を食い千切った。

首のほとんどがゴッソリと無くなっているのに気付いた青年は、白目を剥き、鮮血を噴き出しながら崩れた。

骨と筋肉とを咀嚼する音が途切れ、少女の喉が小さく何度も動き、人肉を嚥下したのが分かった。

「やっぱり不味いね」

そう言うと、口元を袖で拭きながら不機嫌そうに、青年だった肉塊を蹴り飛ばして肉片へと変える。

「やっぱりジャンクフードばっかり食べてると体によくないよ。……ん?」

のほほんと言う少女が気付いた時、すでに遅かった。

残った彼らは、半ば何も考えずに行動していたが、それこそ素晴らしい戦術をとっていた。

四人まで減った彼らは、少女を囲んで、合図も無しに同時に飛び掛ったのだ。

だが、相手が人間であれば大いに有効だっただろうこれも、全く効果が無かった。

いつの間にか髪が房ずつに先端に刃を持っており、触手の如くその房が自由に振り回された。

十本近い斬撃に、後方にいた三人は文字通り解体され、幾つかの人体の部品と化して地面に落下した。

半ば囮の筈だった真正面の一人のみ、攻撃に成功したのだ。

鉄パイプは確実に少女の頭に直撃した……筈だった。

「痛いなぁ」

少女は、全く痛く無さそうにそう言った。

ゴムの塊を殴ったような感覚があるのみで、少女には何の傷もありはしない。

「じゃぁ、今度はコッチの番だね」

笑顔を浮かべながら、少女は彼からパイプを奪って片手で振り上げた。

「あ……やめごぼっ!」

青年は命乞いすらきちんと発することが出来なかった。

異常な力で殴られた頭部は破砕され、たたき潰されて胴体にめり込む。

そこでも止まらず、パイプは青年の腰辺りまで下がり、止まった頃にはくの字に折れ曲がっていた。

倒れる死体も気にせず、パイプを投げ捨てる少女。

簡単にシャッターに突き刺さるが、もう見向きもしない。

そのまま散乱した死体にも目もくれず、樹林の元へと歩いていった。



「君、生きてる?」

人間と同じに戻っている少女の手が、ポンポンと樹林の背を叩く。

「……生きてる」

ゲホゲホと咳き込みながらも返事をする。

少女への、そして死の恐怖が目前にありながら、以外としっかり言えるものだと自分で感心する。

「ねぇ、なんで逃げろって言ったの?やっぱり僕が襲われないように?」

何笑顔で聞いてんだとか、必要無かったなこの化け物めとか、言いたかったが、もう口もあまり動かないので小さく頷くだけにする。

「……あぁ」

「自分が死にそうなのに?」

「……」

「ふぅん」

感心したような、気の無いような返事が返ってくる。

「優しいね、おじさん。僕、おじさんのこと気に入ったよ」

「は……?」

最初に「美味しそう」と言った時と同じような、ニンマリとした笑顔を浮かべ、少女は樹林を抱き抱えた。

血の染み込んだ布が気持ち悪い、と意外と呑気な思考をする樹林。

少女は、今日は我慢とかお腹空いたけど明日までとか何やら呟いた後、ピョンと跳んだ。

軽く数十mの距離を跳び、音も振動も無く民家の屋根へと降りる。

それを何度も何度も繰り返す。

「ねぇ、おじさん」

その道中、少女が話しかけてきた。

「おじさん、名前は何て言うの?」

「……八島……樹林」

もう如何にでもなれ、と数十分前の決心を完全に忘れて自棄になって答える。

「へぇ、キリンかぁ。縁起のいい名前だね」

「……別に」

面白そうにころころ笑う少女に、ぶっきらぼうに答える。

「僕はね、九竜院 鬼姫。変な名前だよね」

自分で言って、やはり面白そうに笑う。

「僕は、キリンを、助けるよ。キリンは、僕を、助けようと、してくれたから」

自分に言い聞かせるように一々区切って言って、やっぱり面白そうに笑う少女……鬼姫。

「僕の家、近いから。そこで治療してあげる」

そう言うと鬼姫は軽やかに跳んでいく。

「………………」

どうやら自分はバケモノの巣に案内されるようだ、と樹林は内心さめざめと泣いた。



やっぱりその日、八島 樹林は運が悪かった。



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